或る世界

2021年9月

割れ目が避けた一片

指で選んだ線から裂け目だけが横へ外れる

表面の亀裂へ人差し指の爪を置き、その線を挟むように両手で持った。親指を裏へ回してゆっくり曲げると、乾いた音が一度鳴る。爪の下から始まった裂け目は、濃いチョコレート片の手前で横へ曲がった。

表から見えていた亀裂は、その片の縁までまっすぐ続いている。けれど裏側では、割れた面が片の下を通らず、薄い生地の方へ抜けていた。両手を離すと、クッキーはまだ一枚のままで、横へ逸れた裂け目だけが少し開いている。

今度は線の続きを押さえず、開いた隙間へ親指の腹を入れた。左右へ引くのではなく、片方を手前、もう片方を奥へひねる。裂け目はさっき曲がった場所から再び進み、チョコレート片の外周を半分ほど回った。

最後に残るのは、二つの生地をまたぐ濃い一片だ。強く広げると生地より先にその中央が折れ、低い音が指へ伝わる。二片になったクッキーの両方へ、割れたチョコレートの艶が残った。

小さい方は紙の上へ戻す。大きい方の断面から細かな屑が落ち、最初に爪を置いた線の脇へ集まる。表面の亀裂は紙の上でもまだ見えるが、実際の断面はその途中から外れ、濃い一片の丸みに沿って終わっていた。

地上が上がる階段

足裏の低さへ地上の像が重なってくる

一段降りると、左のガラスに映った舗道が膝まで上がってきた。もう一段では腰の高さへ来る。足は地下へ向かっているのに、地上の四角い敷石だけが身体を追い越し、肩の脇から上へ抜けていく。

立ち止まれば、舗道も止まる。手すりを握ったまま上体を少し沈めると、足を動かしていないのに、外の植え込みと建物の柱が一緒に持ち上がった。段差を踏む足と、ガラスへ映る高さを決める目は、別々に地下へ近づいている。

入口の灯りは、その動きに加わらなかった。天井に並ぶ小さな電球は、こちらが一段降りても同じ場所に留まる。地上の青さが上へ逃げるほど、低いところの橙色は明るくなり、二つの景色の境目だけが胸元を横切った。

一段だけ戻ってみる。舗道は胸から腹へ下がり、橙色の電球が二つ、青い反射の外へ出た。同じ段をもう一度降りると、敷石の目地が電球を横切る。実際には離れている二つが、どちらも退かず同じガラス面を占めた。

最後の一段へ足を下ろす前に、手すりから指を離す。ガラスの舗道は頭上まで上がり、敷石の線が天井の灯りを斜めに切っている。足裏が低い床へ触れると、背中側から来た白い光が一度だけ靴先へ落ちた。

黄色い靴の段差

見える線と触れる道が指先でほどける

黄色い靴の先へ人差し指を置き、輪郭に沿って上へ動かした。描かれた線は滑らかに曲がっているのに、指の腹は金属の横溝へ来るたび小さく沈む。最初の一溝で爪が止まり、少し立てて向こうの出っ張りへ渡す。

靴の踵から細い脚へ進むあいだに、指は六つの段差を越えた。目は黄色と白の境目を一本の線として追える。指先には線より先に、同じ間隔で繰り返す金属の波が届く。

今度は爪を一つの溝へ入れ、右へ滑らせてみる。指は引っ掛からず進むが、黄色い輪郭から外れ、白い脚を横切り、色のない金属へ出た。触れている道を守ると、見ていた線の方を途中で離れることになる。

輪郭へ戻ろうとして指を斜め上へ押す。爪は隣の溝へ移ったが、絵の線はその途中でさらに上の出っ張りへ曲がっていた。目の道と指の道は、交差する一瞬だけ同じ場所を通り、すぐ別々の向きへ続いていく。

指を離し、もう片方の黄色い靴へ移す。こちらは爪を立てず、掌の側面で輪郭を横切った。何本もの溝がほとんど同時に皮膚へ当たり、一本ずつ数えられなくなる。手を返すと、小指の付け根に平行な赤い跡が二本だけ残っていた。

膝裏の静けさ

身体の高さだけ風の届かない幅が動く

風へ背を向け、足を肩幅に開いた。脛の後ろにある細い草だけが揺れを止め、左右の草は同じ向きへ伏せている。身体が受けた風の幅が、足元へ細長い静けさとして落ちた。

右足を半歩ずらすと、止まっていた一本が急に左へ傾く。代わりに新しい一本が踵の後ろで起き上がる。風を止めたのではなく、届かない場所が身体と一緒に移っていく。

腰を落とす。肩の脇で揺れていた銀色の穂が頭上へ出て、遮るものを失った低い草には風が戻る。立っているときは膝まであった静かな帯が、しゃがむにつれて踵の高さへ縮んだ。

両腕を横へ広げてみる。肘の後ろでは白い穂先が一瞬止まるが、腕の下を抜けた風が腹の後ろで合わさり、シャツの裾を前へ押した。身体の輪郭どおりに無風の穴が残るわけではない。

腕を下ろして立ち上がる。膝裏の草がもう一度止まり、その向こうでは黒紫の丸い穂が風の中へ残った。足を閉じると、二本の脚の間を細い風が抜け、止まっていた草の先だけがこちらへ倒れる。

右向きを持ったまま

曲がれない場所で次の向きだけ受け取る

頭上の矢印を過ぎるところで、右足だけを横へ向けた。上半身も続けて回す。けれど右側にあるのは壁で、身体はまだ市松模様の通路を前へ進むしかなかった。

矢印は、今いる一点から右へ動けと言っているのではないらしい。曲がれる場所がまだ先にあるなら、ここで受け取るのは動作ではなく向きだけだ。足は前へ運びながら、次に開く横道を右側に探す。

右を意識すると、まっすぐな通路の見え方が少し変わった。床の縦目地は正面へ伸びているのに、右肩が壁へ近く感じられる。左足から踏み出すたび、身体は正面へ戻ろうとし、視線だけが右の壁際を先にたどった。

右手の親指を掌へ折り、緑の升目を踏むたび一度押す。三升目では壁の文字へ目を取られ、身体ごと前へ戻る。六升目で親指を開くと、その少し先で壁の端が見えた。

壁が途切れたところで右へ曲がる。右足は床の淡い一升を斜めにまたぎ、左足が新しい通路の目地へそろった。振り返ると、さっきまで前方だった市松模様は横へ流れ、頭上の矢印だけがこちらと同じ向きを保っている。

灯りの側の一粒

拭けない白さを灯りの側から消してみる

カメラを卓上でゆっくり傾けた。レンズの上を白い丸が二つ滑り、一つは縁へ消える。中央より少し右にある小さな点だけは、黒いガラスの同じ場所へ残った。

ブロワーの先を近づけ、斜めから三度空気を送る。外側の輪にあった埃は細く転がり、本体の角へ移った。動かなかった一点へもう一度風を当てても、白さは丸いままである。

レンズ用の布を人差し指へ巻き、中央から外へ小さな螺旋を描いた。布を離すと指の跡はない。それでも一点は、拭いた軌道の内側に残っている。表面でなければ、こちらの手は届かない。

カメラを持ち上げ、今度は左右だけでなく上下へ傾けてみる。一点はガラスに留まっているように見えたが、机の照明を手で覆うと急に薄くなった。手をどけると、同じ場所に丸い白さが再び浮かんだ。

布を畳んで机へ置き、照明のスイッチを切る。レンズの中央は黒くなり、拭けなかった一点も一緒に消えた。ブロワーで飛ばした埃だけが本体の角に残り、暗い机の上で指先に触れる。

紐の十センチ下

指を緩めた長さだけ窓が上から閉じる

二本の紐を右へ引いて留め具を外し、親指と人差し指の間を十センチだけ滑らせた。巻かれていた簾の下端が一段ぶんほどけ、窓外の青い光の輪へ上から重なる。

指を閉じると、簾もその高さで止まった。光の輪は上端を失ったが、斜めの線は隠れた先へまだ続いている。紐に触れている指の幅だけが、見えない部分の長さを測る目印になった。

さらに紐を送り出す。下端の棒が窓枠を横切るたび、手には小さな重さが増えた。赤い線が一本、次に青い線が二本、簾の裏へ入る。見えている輪の方は縮まず、上から順に欠けていく。

半分ほど閉じたところで紐を左へ振り、留め具へ掛け直した。指を離しても下端は動かない。右手には紐の擦れた熱だけが残り、窓の下半分では、切られた光の線が水面近くまで伸びていた。

もう一度紐を持ち、今度は下へ引く。簾が一段ずつ折り畳まれ、隠れていた赤と青が下側から戻った。最後に上端の弧が現れると、右手へ集まった紐は最初より長く垂れ、その先が手首へ一度当たる。

二つ目の四のあと

数字が替わる間にも籠は線を横切る

表示の右端にある四を見たまま、瞬きを一度我慢した。次の数字へ替わるところを捉えたかったが、目の乾きに負けて瞼を閉じる。開けても、四は同じ場所のままだ。

その上では、一台のゴンドラが斜めの支柱へ近づいていた。鉄骨との隙間は少しずつ狭まり、やがて箱の半分が線の裏へ入る。どの一点から向こう側になったのかは決められない。右端の数字なら、古い形が消え、新しい形が現れた瞬間を一目で区切れるはずだった。

もう一度、数字へ視線を戻す。四の縦線が揺れたように見え、すぐ同じ形へ戻った。切替の前触れなのか、遠くの光を見続けた目の揺れなのか分からない。はっきりした境目を待つほど、その手前にある小さな変化を数え始めてしまう。

ゴンドラは支柱を抜け、さっきより右上へ出ていた。数字を見ていた間にも進んだのだろうが、その移動は見ていない。連続して動くものも、視線を外した側では、前の位置と今の位置の二つに分かれる。逆に、一度で替わるはずの表示には、目の揺れが途中を作ってしまう。

右端が五へ替わった。光が薄くなる過程はなく、四の線はまとめて消えている。見届けたつもりで上を見ると、同じゴンドラは隣の支柱へ近づいていた。五を確認した短い間のどこを通ったのか、今度も輪の上には残っていない。

椀の三本目

落ちた一本を縁が指の高さへ戻す

椀に渡した二本の箸を右手でまとめてつまむと、下の一本が指の間から抜けた。先端が縁を越え、内側の斜面を短く滑る。乾いた音が底で一度鳴り、もう一本だけが手に残った。

持っている一本を使って、落ちた箸の中央を押す。箸は底を横へ動くが、丸い内壁へ来ると先が上を向いた。さらに押せば、反対の端がこちら側の縁に沿って持ち上がる。

親指を椀の外へ添え、上がってきた端を縁との間に挟んだ。箸を押している一本、人差し指、親指だけでは届かなかった場所を、動かない縁が下から支えている。三本目の指を借りたような形で、落ちた一本が口の高さまで戻った。

押していた箸をいったん卓へ置き、挟んだ方を先に引き抜く。今度は指の根元まで深く持ち、もう一本を重ねた。先端をそろえようと握り直すと、二本は小さく擦れ、片方だけが一センチほど前へ出る。

食べ終えて箸を戻すときは、二本を重ねず、椀の口へ少し間を空けて渡した。右の一本を指で押しても、隣はついてこない。手を離したあと、さっき底を打った方だけが縁をわずかに転がり、離した幅の中央で止まった。

緑の側だけ短い

同じ歩幅が境目で左右にほどける

右足を人工芝へ踏み入れた瞬間、爪先が思った場所より手前で止まった。左足はまだ硬い舗装にあり、踵から前へ滑らかに体重が移る。腰だけが右へ少し先に回った。

二つの面の境目をまたぐのではなく、その線に沿って歩いてみる。右足は緑、左足は白い舗装へ置く。同じだけ前へ出したつもりでも、右の靴裏は毛足に捕まり、左の爪先が半足ぶん先へ伸びる。

次の一歩では右膝を少し高く上げた。着地した足は滑らず、その場で膝を受け止める。反対側では左の踵が乾いた音を立て、体重を前へ送った。同じ腰から伸びる二本の脚が、別々の速さで歩いている。

数歩先で向きを変え、今度は左足を人工芝へ置いた。短くなる側も左へ移る。脚の癖ではなく足元の面が歩幅を選んでいると分かっても、身体は毎回、遅れた側を腰のひねりで追いつかせようとした。

両足を人工芝へ移すと、左右の爪先はまた並んだ。その代わり歩幅は、舗装だけを歩いていたときより少し狭い。緑の端まで進み、右足だけを白い面へ戻す。靴底が急に前へ出て、踵は境目の細い線を越えたところで一度鳴った。

折り返しの同じ窓

身体が返るたび月だけが反対側へ残る

踊り場で右手を手すりから離し、身体を半回転させる。今まで左肩の先にあった月が、次の段へ足を置くと右側のガラスへ移っていた。月は動かず、向きを返した身体だけが窓の反対側を受け取る。

一つ目の階段では、高い塔へ向かって上がった。折り返したあとの階段では、その塔を背中へ置いて進む。足もとはどちらも上へ続くのに、目の前の夜景だけは一階ごとに前方と後方を入れ替える。

二つ目の踊り場で振り向くと、月はまた左へ戻った。ただし前と同じ窓枠ではない。さっきより一段高い横桟の上にあり、雲の暗い縁が下側へ重なっていた。同じ向きへ戻ったつもりでも、高さの分だけ最初の眺めから外れている。

階段は、右へ進んだ距離を次の一階で左へ戻す。横から見れば、身体は細いガラスの箱の中を往復しているだけに見えるかもしれない。それでも踊り場を一つ越えるたび、道路の信号は下がり、月に近い窓枠は上へ移った。

もう一度折り返す。右手で反対側の手すりを取り、三段上がったところで立ち止まった。月は右の縦枠に半分隠れ、身体を少し左へ傾けると丸く戻る。次の段へ足を置いた瞬間、白い円は枠の裏へ消え、下の道路から車の光だけがガラスを短く上った。

炎の裏の玉葱

見えない間にも細い一本は油の上を動く

肉の脇にある玉葱を一本だけ決め、曲がった先を目で追っていた。先端は鉄板の縁へ向き、反対側は肉の下へ少し入っている。そこへ炎が上がり、白い一本も鉄板の黒さもまとめて見えなくなった。

顔を少し引く。火の向こうを覗こうとしても、橙色の薄い部分が次々に重なり、さっきの隙間まで目が届かない。位置を覚えているものなら、見えなくても同じ場所にあるつもりで待てた。

炎が二つに割れ、中央だけが低くなる。最初に見えたのは玉葱の先端ではなく、肉の焦げた縁だ。さらに火が縮むと、探していた一本は元の隙間から指二本ぶん離れ、丸い鉄板の外側へ沿っていた。

触れていないのに動いたのか、炎の前から別の一本を見ていたのかは分からない。油の細かな泡が玉葱の下で弾けるたび、先端はほんの少し横へ振れる。目印にした一本そのものが、待っている間の目印にはならなかった。

箸を伸ばしかけ、手は途中で止まる。元の隙間へ戻しても、それが最初の一本だった証拠にはならない。油の泡が一つ大きく弾け、外側にいた一本は肉の下へ半分入った。その直後、最初に覚えた隙間から別の白い先端が現れる。どちらを追っていたのか決めないまま、炎の消えた鉄板に二本が残った。

二本の間の一往復

緩んだ側から岸の一点が船を引き戻す

足元の縁へ寄ったとき、船首側の係留索が水を切って持ち上がった。さっきまで垂れていた弧が直線に近づき、岸の金具へつながる最後の部分だけが細かく震える。船体は向こうへ離れようとしていた。

索が張り切る直前、船の動きはいったん止む。次いで、引かれた分だけこちらへ戻り始める。真っ直ぐだった船首側は緩み、水面へ触れたところから黒く沈んだ。反対に、船尾から伸びる一本がゆっくり水を離れ、今度はこちら側の動きを受け止める。

船は岸を離れず、同じ場所で係留を保つ。それでも同じ一点に止まってはいない。二本の索が許す範囲を横切り、一方へ寄るたび、遠い側に残った金具が船を引き戻した。岸から見える移動は短いが、そのたび甲板の窓と背後の建物が少しずつずれる。

次の波では、船尾側の索が先に張った。船体がわずかに回り、船首は岸壁から離れ、船尾は近づく。前の一往復を逆にたどるように見える。それでも二本の長さと角度が違うため、戻る線は行きの線から外れていく。

やがて二本とも弧を取り戻し、船はその間で短く静まった。動きが終わったように見えたあと、船首側の索から水滴が順に落ちる。最後の一滴が水面へ戻ると、船尾側の一本がまた少しずつ真っ直ぐになった。

靴までの半歩

額に届いた日向を靴はまだ知らない

木陰を出る半歩前、額だけが熱くなった。足もとはまだ冷えた舗装にあり、胸にも木の葉を通った風が触れている。顔を上げたわけではないのに、左の瞼が先に細く閉じた。

光は正面からではなく、枝の下を斜めに抜けてきたらしい。爪先を動かさずに首だけ前へ出すと、閉じた瞼の内側が赤くなり、顎を引けば暗さが戻る。額に残る熱を動かさないまま、顔だけで日向と木陰を往復できる幅だった。

右足を半歩進める。光の境目は靴より先に膝を越え、胸へ上がった。衣服の色は変わって見えるのに、布の内側が温まるまでには少し間がある。日向に入ったと決めるのは、目が眩んだときか、皮膚が熱を受け取ったときか、それとも両足の影が背後へそろったときだろう。

左足も前へ運ぶと、踵の後ろに残っていた暗さが切れた。全身が明るい側へ出たはずなのに、右手の甲には一枚の葉の影が乗っている。指を開くと、その小さな木陰は人差し指と中指の間で二つに分かれ、腕を下ろすより先に手首の外へ滑った。

二度目の低い震え

空の軌道を車輪音だけが先へ曲がる

右側の建物の裏から、低い車輪音がせり上がってきた。顔を向けても、色のついた軌道が屋根の上へ短く出ているだけで、動く車体は見えない。音だけが曲線に沿うように右から左へ進んだ。

目でたどれる軌道は途中で壁に隠れ、少し高い場所からまた現れる。見えない部分にも二本の線が続いているはずだが、曲がり方までは分からない。車輪音が高くなるたび、その音を線の現在位置へ置こうとした。

ところが、音は屋根の端まで来たあと、同じ場所でしばらく膨らんだ。車輪が継ぎ目を続けて越えたのか、短い車体の前後が別々に鳴ったのかを見分けられない。軌道は進む先を示していても、音の切れ目までは描いていなかった。

音が急に細くなり、今度は建物の左側へ下がっていく。見える軌道の傾きと同じ方向だったので、そこだけは車体の動きを追えた気がする。しかし姿がないままでは、速さも車両の長さも、音の切れ目から想像するほかなかった。

しばらくして音が途切れる。空の軌道を見ていると、屋根の右下から別の低い震えが始まった。さっきの車体が一周したのか、次の車体なのかは分からない。音は同じ曲線を登りながら、最初より少し早く高くなった。

踏み直す前の土

均した土へ次の一歩が同じ窪みを戻す

球が捕手のミットへ収まる音のあと、投手はすぐ次の構えへ戻らず、踏み出した足もとを見た。爪先の前に細い土の盛り上がりができ、踵の側は色の濃い窪みになっている。

右足を半歩引き、靴底の外側で盛り上がった土を窪みへ寄せた。一度では埋まらず、向きを変えてもう一度なぞる。最後に爪先で二度踏むと、さっきの足跡は周りと同じ低さへ戻った。ただ、靴底の線だけは浅い斜線のままだ。

投手板へ足を掛け、脚を上げる。身体が前へ傾き、均した場所へ左足が落ちた。着地した靴は少し滑り、詰めた土を前へ押し出す。投球が終わったとき、同じ場所に先ほどより幅の広い窪みが現れていた。

次の球を受け取るまでの間に、また靴底で土を戻す。完全に平らにするためではなく、次の一歩を置けるところまで戻しているように見えた。投げるたび消しているのに、足は毎回ほぼ同じ跡を作る。

三度目は、窪みの手前だけを軽く踏み固めた。投球のあと、踵の跡はそこを外れ、指二本ぶん左へ残る。投手は新しい盛り上がりへ足を運びかけたが、捕手から球が返ると顔を上げ、二つの窪みを残したまま投手板へ戻った。

声の戻るねじ山

指を離しても声と像が同じ場所に残る

画面が四角い色の集まりで止まり、少し遅れて声も途切れた。受像機の裏へ手を回すと、同軸ケーブルのねじ環が指先で半回転ほど動く。押し込んだままにすると声だけが短く戻った。

親指と人差し指で環をつまみ、右へ少し回す。環は軽く進んだが、ケーブル本体まで同じ向きへねじれて手首を押し返した。そこで手を離すと声は続いたものの、画面の右半分には大きな四角が残り、動いた人物らしい輪郭がその中で途切れている。

環から手を離してケーブルのねじれだけを戻し、端子を奥へ押しながら続きを締めた。一周目は軽く、二周目で指の腹へ細かな刻みが食い込む。声の末尾が欠けなくなり、画面の四角も上から順に細かくなった。音と像は同じ線を通ってきたはずなのに、戻る時点はそろわない。

さらに締めればよいのか、今の位置で止めるべきか迷う。環へ指を置くだけで画面が一度揺れたため、力を加えずに待った。動く部分は左から右へ広がり、最後まで止まっていた下端の帯も少し遅れて流れ始める。

環をもう三分の一だけ回し、指を離した。声は切れず、画面にも四角は戻らない。端子の金属へ預けていた指先には丸い冷たさが残る。手を表へ戻した瞬間、画面の隅に一つだけ現れた小さな四角が、隣の色へほどけて消えた。

足場の裏の曲がり角

葉は踏めない隙間だけをつないで向こうへ行く

乾いた葉を一枚、水へ置いた。指を離すと表を上にしたまま進み、最初の四角い足場の角で止まる。水だけは角の両側へ分かれ、葉の先を小さく左右へ振った。

足場の上から見れば、次に踏む四角は斜め前にある。水へ落ちずに渡るには、固い面同士の近さを選べばよい。ところが葉が進めるのは、その足場と足場の間にある細い水路だけだった。こちらが道と呼ぶ面は葉を止め、空白に見えた側が先へ運ぶ。

葉は左の隙間へ回り込み、長い足場の縁に沿った。流れの幅が狭くなると少し速くなり、広い水面へ出たところで一度回る。進んだ距離より、どの角で向きを変えたかの方が、葉の経路をはっきり示していた。

同じ配置から、足は四角をつなぐ道を読み、水は四角に切り取られた隙間をつなぐ。片方の道を広げれば、もう片方は狭くなる。足場を一つ増やせば渡る歩幅は短くできるが、葉には新しい曲がり角が加わるだろう。

最後の大きな足場の手前で、葉が暗い裏側へ半分吸い込まれた。見えないまま反対側へ出ると思って待つ。しばらくして、葉ではなく細い泡の列が反対側へ現れる。葉はどこかの角に残り、泡だけがその先の隙間を曲がっていった。

額ひとつぶんの夜

冷たい面へ近づくほど部屋の灯りが薄くなる

部屋の灯りを消しても、窓には机の端が薄く残った。額をガラスへ近づける。冷たさが触れる少し前に、映っていた椅子の背が暗がりへ沈み、中庭の奥にある窓が一つ増えた。

両手を目の脇へ立てると、掌の内側に小さな暗い囲いができる。そこから見る外は、さっきより広いのではなく、室内が重なる余地だけ狭かった。右手を一センチ離せば、壁際の灯りに自分の指が半透明で戻る。左手も離すと、外壁の窓とこちらの棚が同じ高さに並んだ。

ガラスを隔てた向こうから、噴水の音が続いている。水そのものは植え込みに半分隠れていても、落ちる音は消えない。額を離すと音が近づいたように感じ、また寄せると視界の奥へ下がる。耳の位置はほとんど動いていないから、明るくなった室内の像が、音までこちら側へ連れ戻したのだろうか。

もう一度、両手で光を遮った。今度は額がガラスに触れ、冷たさが眉の上へ細く広がる。中庭の灯りは増えず、暗かった植え込みの葉が少しずつ分かれた。外を見るために消したはずの部屋は、完全には消えない。袖口の白さだけがガラスの下端に残っている。

手を下ろし、額を離した。机の端と椅子の背が窓へ戻り、向こうの一階を覆う。見えなくなった噴水から水音が一段強く届いた。窓の中で重なった二つの部屋の間を、袖口の白い影だけが下へ滑って消える。

留め金の向こうの布

指をほどいた場所だけ金属の冷たさが戻る

細長い布を管へ一周させ、両端を左右の手で持った。右手を引くと布の輪が金属を滑り、湿った部分だけ色が濃くなる。腕一本ぶん進んだところで輪が急に動かなくなり、左の指へ布の端が食い込んだ。

輪の内側に固定金具が挟まっている。布を強く引けば金具の手前までは寄るが、その先へは通らない。緩めて反対へ引くと、拭き取った水が管の下側へ細い筋を残し、布だけが来た方向へ戻った。

右手の端を離し、左手で布を引き抜く。輪をほどいた途端、隠れていた管の冷たさが指先へ戻る。金具を越えるのは布ではなく、持っている手の方だった。一歩ずれて向こう側へ端を回し、もう一度両手で受け取る。

掛け直した輪を引くと、最初の数センチだけ布が軽かった。固定金具の裏側は拭けておらず、そこへ届いたところで手応えが重くなる。左右へ二度動かすと水の筋が途切れ、金具の両側にあった濡れた面が一つにつながった。それでも金具と管が触れる細い隙間には布が入らない。

二本目の管へ布を移す。今度は金具の少し前で止め、自分から先に一歩ずれた。布をほどくと、輪だった部分が真っ直ぐ垂れ、端から一滴落ちる。掛け直す前に、その一滴だけが固定金具の下をくぐって向こう側へ流れた。

中央だけの待ち時間

表裏が変わっても内側の細い線は湯を待つ

折れた一枚を箸で持ち上げ、その形のまま湯へ沈めた。外側はすぐ淡い色へ変わり、縁が縮んで箸の先へ寄る。二つ折りの内側だけは見えない。表と裏を返せば一枚全体へ湯が触れたように思えた。

箸先で折り目を開く。重なっていた面には赤さが残り、中央を横切る細い線になった。湯に入っていた時間は外側と同じでも、そこへ湯が直接届いた時間はほとんどない。一枚を鍋へ入れたという動作と、一枚の各面が加熱されたことは一致していなかった。

開いた肉をもう一度沈めると、赤い線は端から薄くなる。今度は全面が湯へ触れているはずだが、折り目には厚みがあり、平らな場所より遅れて色が変わった。面が開いても、畳まれていた時間は肉の形に残っている。

どこまで色が変われば一枚を引き上げるのか。外側だけなら最初から十分に見え、折り目だけならまだ待ちたい。箸で肉を広げている間にも、薄い端は縮み続ける。全体を同じ状態へそろえようとすれば、先に湯へ触れた部分はその分だけ先へ進んでしまう。

赤い線が消える直前に引き上げた。皿へ置くと折り目はまた自然に閉じ、どこが最後まで内側だったのか見えなくなる。箸で端を少し持ち上げると、隠れた一本からだけ湯気が細く出た。

帰りの左袖

同じ風の中で袖口だけが帰り道を受け取る

道の端を進むと、右肩の後ろで穂が衣服を擦った。風は左から右へ吹き、細い茎を歩く先と同じ方向へ倒している。穂先は背中に短く触れたあと、そのまま後ろへ滑って離れた。

少し先で立ち止まり、来た方へ身体を返す。風向きは変わらず、草もさっきと同じ側へ傾いたままだ。ところが歩き始めると、最初の穂は背中へ逃げず、左腕の前から袖口へ入り込む。前腕を上げるまで、細い先が布と手首の間をくすぐり続けた。

行きには、身体が穂の傾く向きを追い越すように進む。接触した穂は肩から背へ流れ、歩みは止まらなかった。帰りには傾きと向き合うため、穂先が腕の正面で止まり、茎の弾力が袖を押し返す。同じ一本が柔らかくも硬くもなったのではなく、身体の前後が入れ替わる。

腕を胸の前へ寄せて通ると、次の穂は肘の外を滑った。避けたつもりでも、後ろにあった別の一本が脇腹を打つ。行きに触れなかった場所まで、帰りの身体では草の側へ向く面に変わった。歩幅を狭めても、擦れる場所だけが肩、肘、腰へ移る。

草の端を抜けて左袖を二度払う。手首に入った穂先は落ちたが、細い毛が一本、縫い目に残る。指で取ろうと腕を返した瞬間、背後で一斉に草が擦れ、行きには聞こえなかった側から音が追いかけてきた。

指一本ぶんの切断

机の列が黙ると同じ文字がガラスへ浮かぶ

画面を両手で持ち上げ、キーボードの支えから指一本ぶん離した。机に残ったキーを右手で一つ押す。薄い音と手応えは返ったが、入力欄のカーソルは動かない。その代わり、画面の下から別のキー列がせり上がった。

同じ文字が、机の上にもガラスの中にも並んでいる。下のキーは押せば沈むのに、文字を送らない。画面側は沈まないまま、触れた場所の色だけを短く変え、一文字を入力欄へ置いた。形は似ていても、指へ返す合図は反対になる。

離れた距離はわずかで、画面と台の間から机が細く見えるだけだ。それでも、その隙間を境に入力を受け取る面が切り替わった。机のキーから機能が抜けたのではない。画面とのつながりがなくなったため、押したことを渡す相手だけがいなくなっている。

画面を支えの方へ運ぶ。縁が触れる直前までは、ガラスのキー列が残った。さらに押し込むと列は下へ消え、入力欄がその分だけ縦に広がる。机の同じキーを押せば、今度は音に続いて一文字が現れた。接続は見えないが、画面から消えた列が合図になる。

もう一度、上端を手前へ引いた。支えから離れる瞬間、入力しかけた文字は欄に残り、机のキーだけが黙る。画面の下端には、最初の一列がまだ半分しか現れていない。そこへ親指を置くと、完全に開く前の一文字だけが先に濃くなった。

空いた丸みの裏側

指が沈む一か所だけ透明な列に空きがある

包装を裏返し、白い丸みの中央へ親指を置いた。少し押すと反対側の透明な覆いが膨らみ、指を戻せば元の高さへ戻る。さらに力を加えたところで、薄い裏面が一度だけ硬く鳴った。

裂け目から白い円形物が半分出る。親指を斜めへずらすと、縁が裏面を四方へ押し広げ、最後は掌へ落ちた。押していた指は急に軽くなり、そのまま穴の中へ少し沈む。隣の区画なら、同じ力を加えても中身の硬さですぐ止まった。

表へ返すと、空いた区画にも透明な丸い覆いが残っている。横から見れば中は空だが、真上からは照明の白さが重なり、隣と同じ丸みにも見えた。人差し指で触れると、満ちた区画はすぐ硬さを返し、空の一か所だけが底までたわむ。

裏側に残った空きは、破れた縁だった。表側では、形を保った透明な窪みになる。どちらから触れても同じ一個がないことを示すが、指へ返す感触は、引っ掛かる穴と沈む丸みで反対だった。

包装を机へ置き、表から空いた場所をもう一度押す。透明な覆いは底へ付き、指を離すと浅く戻った。隣の白い丸みは動かない。列を端からなぞると、一か所だけ指先が沈み、裏の裂け目が机に小さく擦れた。