或る世界

背筋は先に知っている

戸に触れる前に肩の高さだけが変わった

戸へ伸ばしかけた手を止め、「武術」と書かれた紙を読み直した。その途端、肩がわずかに後ろへ動いた。胸を張ろうと考えたわけではない。二文字を目で追うあいだに、背中の方が勝手に姿勢を選んでいた。

何を教える場所なのかも、今も人が出入りしているのかも不明のままだ。私は武術の型も、正しい立ち方も身につけていない。それなのに、腰を曲げたままではいけないような気がした。知識より先に届く言葉があるらしい。

試しに肩の力を抜くと、今度は顎の位置が気になった。足を少し開けば、それも何かの構えに見えてくる。誰も見ていない入口で、知らない作法を間違えているような居心地の悪さだけが生まれた。紙には姿勢について何も書かれていない。

名前には、物を指す以外の働きがあるのだろうか。病院の前では声を落とし、図書館では足音を小さくする。そうした場所には理由も経験もある。だが、この二文字について私が持っているのは、見聞きした断片ばかりだった。それでも身体は、分からないまま真似のできる形を探してしまう。

もう一度、戸へ手を伸ばした。袖に葉先が触れ、反射的に肩をすぼめる。さっき整えた背筋はそれだけでほどけた。紙の二文字は変わらず、私の姿勢だけが入口の前で二度変わった。