或る世界

扉の横の手

触れた形と、触れるたび消える形が並んでいる

壁の手形へ自分の掌を近づけた。指先の向きを合わせても触れはせず、数センチ手前で止める。黒い跡は私の手より小さく、親指と人差し指の開き方まで一度の形を残していた。

その横の扉には、丸い金属の取っ手が付いている。こちらも多くの掌に触れられたはずなのに、誰か一人の指は見つからない。握られるたびに汚れや光沢が重なり、個別の接触は丸い面へ混ざっていた。

触れた記録は、回数が増えるほど詳しくなるとは限らないらしい。壁は一度の押し付けを五本の指に分けて残す。取っ手は何度も握られるほど、どの指がどこにあったかを失い、触れられやすい場所だけを滑らかにする。

では、残っているのは手の形なのか、手の多さなのか。壁の跡からは一回の姿勢が読めても、その後の暮らしは分からない。取っ手からは誰の手も読めない代わりに、そこが繰り返し使われたことだけが伝わる。

取っ手へ指をかけると、冷たい丸みが掌へ収まった。扉を少し引き、また閉じた。手を離したあと、金属の上に私の形は残らず、壁の小さな掌だけが開いたままだった。