壁が「ここ」になる

門の脇の壁に、「COME」と大きく書かれていた。矢印はない。それでも、その言葉を読んだ側は、門の向こうへ進む方向を自然に思い浮かべる。
行く、という言葉は、話している人から離れる動きにも使える。来る、という言葉は反対に、話し手のいる場所へ近づく動きである。行先の名を一つも書かなくても、「来て」と言うだけで、声の主がいる方角が目的地になる。
ところが壁には身体がなく、待っている誰かの位置も見えない。文字を置かれた壁そのものが、こちら側を外とし、門の内側を「ここ」にしている。動詞が場所を説明するのではなく、動詞の向きから場所が生まれていた。
案内には、地名や部屋番号が必要だと思っていた。しかし、読む人との関係を一つ決めれば、名前のない場所も指せるらしい。「こちらへ」という向きだけが、門の先を一時的な中心に変える。
私は文字の前を通り過ぎ、少し離れてから振り返った。壁の言葉は動かなかった。こちらの位置だけが変わったため、さっきまで近づくためだった一語が、今度は戻る方向を指していた。