戻せない一滴

麺の入ったスープの脇に、柑橘と赤い調味料が置かれていた。どちらも好きなだけ加えられる。しかし、好きなだけ元へ戻せるわけではない。
絞る前の柑橘は、まだ入れる量を選べる。匙の上の調味料も、器へ落とすまでは減らせる。ところが、いったんスープに溶ければ、その一滴だけを拾い出すことはできない。足すという簡単な動作には、戻る向きが用意されていない。
選択肢が多いと、自由が増えたように感じる。だが、その自由は左右へ同じように開いているとは限らない。濃くすることは一瞬でできても、薄くするには別のスープが要る。進む道がいくつあっても、引き返す道が同じ数だけあるわけではない。
だから、最初から好みの味を当てようとせず、少し入れては飲んだ。慎重さとは、何も変えないことではないのだろう。戻せない方向へ進むとき、一度に動かす距離を小さくすることである。
柑橘をもう一度だけ絞ると、酸味がはっきりした。元の味は消えたが、失敗したとは思わなかった。戻れない一滴を重ねながら、ちょうどよい場所へ近づくしかない味もある。