ここで止める想像

トゥール・スレン虐殺博物館の部屋に入ると、想像することが礼儀なのか、想像しないことが礼儀なのか、わからなくなった。
ここが学校だったこと、のちにS-21と呼ばれる収容施設へ変えられたこと、そこで多くの人が拘束され、拷問を受けたことは記録に残っている。鉄の寝台も、窓も、床も残っている。しかし、部屋にいた一人の人が何を見て、何を考えたかまで、訪れた私にわかるわけではない。
空いた場所を見ると、人はそこへ物語を入れたくなる。横たわる姿を思い浮かべ、聞こえた音を想像し、恐怖の形までわかったつもりになる。何も考えずに通り過ぎるよりは、その方が出来事へ近づいているように感じられる。
しかし、想像で距離を埋めることが、いつも理解になるとは限らない。知らない痛みを自分の言葉で完成させれば、実際にそこにいた人の経験を、訪問者が読みやすい一つの場面へ置き換えてしまう。
残された物は証拠である。だが、証拠が示すところから先は、自由に物語を作ってよい余白ではない。わからないことを、わからないまま引き受けることも、知ろうとする態度の一部なのだろう。
部屋を出る前に、もう一度振り返った。寝台は空いていた。その空白を誰かの姿で埋めず、ここで想像を止めることにした。