或る世界

2019年9月

  1. 失われた色ほど、記憶の中では鮮やかになる

    色は証言しない

  2. 境目のない場所で、命令だけが先に終わる

    禁止の終点

  3. 短い酸味が、同じ味の途中に境目をつくる

    一度だけの酸味

  4. 開いた扉の向こうにも、乗らなかった時間がある

    降りなかった街

  5. 待たせない仕事は、誰もいないうちから始まる

    誰も乗らない速度

  6. 重ねた人は違っても、残る面は一つになる

    作者のいない表紙

  7. 近さを決めるのは、間隔ではなく渡れる場所だ

    隣の道は遠い

  8. 正しくない針が、正しい時刻に人を着かせる

    知っている五分

  9. 全員が前へ出ると、先頭だけが消えてしまう

    大声の平均

  10. 速い相手に届く言葉ほど、大きく短くなっていく

    走る人の文字

  11. 同じ形を押すたび、違う一回だけが紙に残る

    同じ印は二度ない

  12. 遠い扉が開くたび、足音の波だけが届いてくる

    到着は歩いてくる

  13. 空いているところほど、立つ場所から景色を借りる

    借りものの輪郭

  14. 丸い形にも、掛けた瞬間から上と下が生まれる

    輪にも上がある

  15. 切り口の数だけ、待っていた手が同時に動き出す

    順番を切る

  16. 乾く順番が、見えなかった傾きを教えてくれる

    雨の残る角度

  17. まっすぐな枠を、斜めの一本が動けなくする

    斜めの一本

  18. 入口が合っても、中を流れるものまでは同じにならない

    入口だけが合う

  19. 確かめないことまで含めて、持ち歩くものがある

    開けない中身

  20. 同じ食卓へ、食べるものの違う客が集まってくる

    花を食べない客

  21. 分かれているものにも、裏側だけの一枚がある

    焼き目は一枚

  22. 大きな看板ほど、名づけている範囲は小さい

    いちばん小さな地名

  23. 頼んだ一語より、運ばれてくる朝の方が広い

    伝票には一杯

  24. 何もない場所が、次の形を先に預かっている

    空き地の番

  25. 身体を止めず、通る前と後だけを分けている

    閉じない門

  26. 見えない始まりを、上まで返してから食べる

    一口目は底にある

  27. 手を出せないものだけが、最後まで残っている

    食べないための食料

  28. 地図の一点を、高さだけ違えて通り過ぎる

    交差しても会わない

  29. 離れた距離のぶんだけ、帰る方角が生まれる

    家が目的地になる