或る世界

2019年7月 - 文章

同じ茎の時間

始まりは、いつも同じ速さではやってこない

いくつものことが同時に始まると、すべてが同じ速さで進んでいるように思いたくなる。だが、始まったばかりの暮らしには、すでに開いた部分もあれば、まだ蕾のままの部分もある。

いくつかの大きな区切りを決め、結婚したばかりの暮らしも始まっている。予定表に書けば、それぞれに始まりと終わりがある。しかし、人の時間は、引いた線のところで一斉に切り替わるわけではないのだろう。

「区切り」という言葉には、一つの瞬間にすべてが切り替わるような響きがある。だが実際には、一つを終える前から次のことを考え、新しい暮らしも先に動き始めている。何かが開く隣では、別の何かがまだ蕾でいる。その不揃いな時間の中に、私は立っている。

日記を書き始める。何かまでの残りを数えるためではなく、同じ茎の上で、何が先に開き、何がゆっくり開くのかを見ておくために。

緑のボタン

わからないままでも、暮らしは一歩進められる

読めない言葉の並ぶ画面でも、夕食を頼むことはできるらしい。拾える漢字と数字をつなぎ、値引きの理由はわからないまま、最後に目立つ緑のボタンまでたどり着いた。

言葉がわからない土地で、食事をどうするのか。知らない土地へ長く出かけることを考えると、そんな心配をすることがある。しかし、この画面を見ていると、人が暮らすための手順は、言葉より先に似ていくのかもしれない。食べたいものを選び、値段を確かめ、住所を指定し、最後に目立つボタンを押す。

もちろん、数字が読めることと、仕組みを理解していることは違う。なぜこれほど安くなったのか、どんな条件が付いているのかはわからない。便利さとは、わからない部分を残したまま先へ進めることでもあるのだろう。

以前見た花は、すべてが開き揃う前から、すでに一つの花の姿をしていた。私も、すべての文字が読める日を待たなくてよいのかもしれない。下にある緑のボタンを押せば、たぶん夕食は近づいてくる。

橋の全景

渡っている最中には、自分の描く線は見えない

一日を過ごしている最中に、自分がどんな形を作っているかを考えることは少ない。目に入るのは、いま踏んでいる場所と、少し先の行き先くらいである。

しかし、橋の上にいる人には、橋の全景は見えない。目に入るのは足元の舗装や欄干や、少し先を歩く誰かの背中くらいだろう。自分が一本の橋を渡っていることは知っていても、それが夕空にどんな線を引いているかまではわからない。

写真を撮ったとき、目で追っていたのは橋を行く人影だった。あとで画面を見ると、人より先に、空を二つに分ける橋の線が目に入った。同じ場所に立っていたはずなのに、少し時間を置いただけで見えるものが変わっていた。

日記も、それに似ているのかもしれない。一日を過ごしている最中には足元しか見えない。書いて残し、少し遠くから読み返したとき、その日が空に引いていた線を初めて知る。

人影は一人ずつ木の陰へ消えていった。橋だけがしばらく、夕空を横切っていた。

噛まない口

目が二つ付くだけで、道具にも性格が生まれる

道具に丸い目を二つ付けると、それまで気軽に動かしていた部分が、急に口のように見えてくる。金具へ手を伸ばすだけなのに、眠っている生き物を起こすような気分になった。

ファスナーは、普段なら開くか閉じるかだけの道具である。ところが目を付けられた途端、こちらが金具を引けば、口を無理に開かせることになる。何も感じないはずの鞄に、少し悪いことをするような気がしてくる。

ものが生き物に変わるには、手足も声も要らないらしい。丸い目が二つあれば十分で、あとは見る側が勝手に性格まで考える。この鞄は、驚いているのか、腹を空かせているのか、それとも黙ってこちらを値踏みしているのか。

もちろん、噛みつきはしない。それでも金具に手を伸ばすと、二つの目が少しだけ大きくなったように見えた。

水面の食卓

誰かの夕食を、自分の風景にしないために

旅先の夜、美しい食堂を見つけると、入り口より先にカメラを探してしまうことがある。その瞬間、そこにいる人の暮らしを、自分が持ち帰る風景へ変え始めているのかもしれない。

こちら側から眺めれば、それは夜の美しい景色である。しかし、席に座っている人たちにとっては、ただの夕食なのだろう。何を食べるか決め、皿を取り分け、その日にあったことを話す。水面の映り方を気にしている人はいないかもしれない。

旅をすると、誰かの日常を「風景」と呼ぶことが増える。古い家、洗濯物、朝の市場、窓辺の食事。珍しいものを見つけたつもりでも、そこにいる人は私に見せるために暮らしているわけではない。そのことを忘れると、旅は世界を見ることではなく、世界を背景にして自分を見ることになってしまう。

写真は、その場では見えなかった形を後から見せる。だが、写真が見せるものばかりがすべてではない。離れることで橋の全景が見えることもあれば、離れたために、食卓を囲む人の事情が見えなくなることもある。

近い将来、知らない土地を長く歩くことになる。美しい場所では、まず写真を撮りたくなるだろう。それでも、窓の中にいる人の夕食まで、自分の景色にしてよいわけではない。

水面の食卓は、細かな波で何度も崩れた。窓の内側の食卓は、そのあいだも変わらず続いていた。

仮設の時間

途中にしか立てない場所にも、固有の時間がある

工事中の建物を見上げると、完成後には消えてしまう場所で人が働いている。やがて外される足場も、いまはそこにしか届かないための床であり、完成した建物の不完全な写しではない。

建物が完成すれば、途中にあった仕事の多くは壁の内側へ隠れ、足場も取り外される。しかし、最後になくなることを前提にしたものが、完成までのあいだを立たせている。

一つの期間を終え、次の暮らしへ移る。出口と入口を先に決めると、間にある時間まで一つの通路のように思えてくる。前を片付けるための時間、次を始めるための時間。どちらにも属さない部分は、予定表の余白として扱ってしまいそうになる。

だが、足場は建物ではないから無意味なのではない。そこにしか立てない人がいて、そこからしか届かない場所がある。完成すれば消えてしまう眺めを、仮の床が支えている。

何かを終え、次を始めるまでにも「仮設の時間」があるのだと思う。何者であるかを説明しにくく、あとから振り返れば短い期間に見える時間。それは次の場所へ渡るためだけにあるのではない。そこでしか考えられないことや、そこでしか見えない高さがある。

何が完成するのかを急いで考えず、私はしばらく、途中にしかない高さを眺めていた。

最後のひと切れ

楽しみは、最後まで残すほど少し重くなる

食事の終わりが近づくと、どれを最後に食べるかが気になり始める。初めは同じように並んでいたものも、数が減れば、そのどれかが必ず最後のひと切れになる。

好物は先に食べるか、最後まで残すかという話がある。私は、その日の気分によって答えが変わる。先に食べれば、あとは安心していられる。残しておけば、食事の終わりに小さな楽しみが待っている。

ところが、最後まで残したものは、残しているあいだに少しずつ重くなる。楽しみだったはずの一切れに、食事をきれいに終わらせる役目まで負わせてしまうからだ。

フォークの先にある果物は、まだ最後ではない。私はそれを口に運び、次に残ったものを見た。最後のひと切れは、いつも食べる直前になって初めて決まる。

一皿の休み

一皿ぶんの場所が、仕事と休みを分けてくれる

午後、仕事の手を止める理由が見つからないときは、机の端に皿を置く。休憩の時刻を決めるより、一度フォークを持ってしまう方が、指をキーから離しやすい。

仕事をしている机で何かを食べるとき、私は机を食卓らしく整えたりはしない。紙を少し寄せ、手前に一皿ぶんの場所を作る。それだけで、さっきまでキーを打っていた場所が、十分ほど食事をする場所になる。

机は、そのあいだも仕事机の顔を失わない。黒い画面は消えず、ケーブルもつながったままである。しかし、フォークを持っている手ではキーを打てない。その小さな不自由が、仕事と休みの境を作ってくれる。

休むためには、仕事机から離れなければならないと思うことがある。だが、場所の役目は意外に狭い範囲で変わるらしい。皿を置き、果物を一つ食べる。机の上にできた休みは、皿を洗う頃には消えている。

食べる種、残す種

同じ名前でも、気になる大きさは同じではない

西瓜の種は口から出すのに、キウイの種は果肉と一緒に食べてしまう。同じ種と呼びながら、口に入ったときの扱いはずいぶん違う。

キウイの種だけを一本ずつ取り除いて食べる人は、たぶんあまりいない。西瓜の種も、ずっと小さければ気にせず噛んでしまうのだろう。食べられるか食べられないかより、気になる大きさかどうかで、扱いが決まっている。

同じ名前で呼ぶからといって、同じ扱いになるとは限らない。大きければ指でつまみ、小さければ存在しないのと同じにする。そう考えると、私たちはずいぶん多くのものを、解決したのではなく、小さいという理由で飲み込んでいる。

西瓜の種を一つよけたあと、キウイはそのまま口へ運んだ。数え切れないほど種があるのに、そちらを取り除こうとは思わなかった。

一灯の複数形

一つの決断は、隣の人に別の予定を生む

同じ灯りの下にいても、立つ場所を変えれば、明るく見えるものは入れ替わる。一つの出来事が、そのまま同じ姿で全員へ届くわけではないのだろう。

シャンデリアは、光を足しているのではない。もとの灯りを受けて、砕き、返しているだけである。それなのに、眺める側には、一つだったものが数え切れないほど増えたように見える。

一つの出来事も、それを受け取る人の数だけ姿を変えるのかもしれない。嬉しい知らせが、別の人には不安の始まりになることがある。自分では小さく決めたつもりのことが、近くにいる誰かには大きな変化として届くこともある。

自分で決めた大きな予定は、私の中では一本の線になっている。しかし、結婚したばかりの暮らしの中では、私一人のものではない。私が予定表に線を一つ引けば、隣にいる人の予定表にも、そこから別の予定が生まれる。

立つ場所を変えるたび、明るく見えるものと暗く見えるものが入れ替わった。灯りは一つのまま、その姿だけが増え続けていた。

灯りの外側

目立つものの外側にも、欠かせない場所がある

夜景の前では、明るいところから順に目を動かしてしまう。しばらくして視線を外したとき、何もないと思っていた暗がりにも、街と同じだけの広さがあることに気づいた。

夜景を見るとき、私は灯りの数を見てしまう。どれほど高い建物か、どれほど華やかな色か。だが、空まで明るければ塔の先は見えず、水まで光っていれば反射は消える。灯りだけを集めても、夜景にはならないらしい。

目立つものは、それだけで目立っているわけではない。何もないように見える場所が、そのまわりに残されているから輪郭を持つ。暗がりは欠けた場所ではなく、灯りを灯りとして見せる場所でもある。

しばらく眺めていると、街よりも手前の水が気になり始めた。黒一色に見えた水面にも、細かな波の濃淡がある。もう一度街へ目を戻したとき、暗い部分を、何も写っていない場所とは思えなくなっていた。

どちらの空

正しさのわからない朝にも、傘を選ぶしかない

朝にする判断の中で、傘を持つかどうかほど、夜にはっきり採点できるものも少ない。降れば持って出て正解で、降らなければ一日ぶんの荷物だったと思う。

出かける前、こういう空を見ると傘を持つべきか迷う。持って出て降らなければ、傘は一日ぶんの荷物になる。置いて出て降られれば、朝の判断を悔やむことになる。

天気予報には晴れ、曇り、雨という名前がある。しかし、実際の空は三つのどれかに、すぐ収まってくれない。太陽を隠しながら明るく、雨を含んでいるようで、まだ一滴も落とさない。

結局、折り畳み傘を鞄に入れた。正しかったかどうかは、夜までわからない。建物を出るとき、雲の奥の太陽は、さっきより少し丸く見えていた。

低い屋根

高さだけでは、街との近さを測ることはできない

街にいると高層ビルを見上げ、そのあいだに残った空の狭さを感じる。遠くからでも見え、地図の目印になり、何階あるのかを知りたくなる。高さは数字にできるから、比べるのにも都合がよい。

しかし、街を歩くとき、高さだけが建物の尺度ではない。遠くから見つけるのは高い塔でも、近づいて読めるのは低い建物の窓や扉である。高いものが空へ伸びる一方で、低いものは人の歩く場所に沿って広がっていた。

通りを歩く人にとって、実際に入口を探し、窓を眺め、軒下で足を止めるのは、こちらの建物かもしれない。塔の先から目を下ろすと、丸い屋根が青空を浅い器のように受け止めていた。

二つの終わり

残った長さだけでは、終わりの理由は測れない

何かを途中でやめると、まだ続けられたのに、という形だけが残ることがある。長く残った吸い殻を見て、私は、最後まで使い切ったものとの違いを考えた。

最後まで燃えたものには、役目を果たしたような姿がある。途中で消されたものには、まだ使えたのに、という感じが残る。しかし、時間がたてば、どちらも同じ吸い殻として片付けられる。

長く続けたことに区切りをつけると決めてから、「終える」ことと「やめる」ことの違いを考える。すべてをきれいに完成させて去ることができればよいが、仕事には、使い切った煙草のような明確な最後はない。片付けても、続きを考えようと思えば、いくらでも考えられる。

だから、途中で火を消す日を自分で決めるしかないのだろう。外からは、投げ出したように見えるかもしれない。だが、何が残ったかだけでは、なぜそこで終えたのかも、その終わりが早すぎたかどうかも決められない。

火を消した理由は、残ったものからはわからない。終わり方には、一つの長さしかないわけではないのだ。

戻らない文字

消した言葉も、書き直した文のどこかに残る

一文字を打ったあと、何もなかった紙へ戻れない道具で文章を書くのは、どんな気分だろう。タイプライターを前にすると、最初の一打だけが、二文字目以降より重く思えた。

コンピューターで文章を書くと、間違えた文字はすぐ消せる。段落ごと移し、気に入らなければ元へ戻すこともできる。「取り消し」があるおかげで、考えが固まる前から指を動かせる。

タイプライターでは、一文字を打つたび、考えが紙の上で物になる。消せないわけではないにしても、何もなかった状態へきれいに戻すのは難しい。その不自由さは、正しい言葉を選べと迫るより、一度進んだことを引き受けるよう求めているように見えた。

私は日記を書くとき、何度も文を消している。消した文は画面からなくなり、最初から考えなかったような顔をする。だが、書き直した文章の中にも、消した言葉が押した跡は、どこかに残っているのかもしれない。

まだ文字を一つも打たないまま、私は、白い紙が差し込まれた後の最初の一打だけを少し怖く思った。

写真のない日

写真を一枚も残さないまま、一日が終わった。撮りたいものがなかったわけではない。机の上の湯気も、帰り道の雲も、画面を開く前には少し気になっていた。それでも手を伸ばさないうちに、どれも過ぎていった。

写真は一日を後から形にする。では、写真のない日は形がないのだろうか。思い出せなくなる細部はあっても、形が残らないことと、何もなかったことは同じではない。

日記には、写真を撮らなかったことだけを書いておく。空白を埋めるためではなく、空白にも時間があることを忘れないために。

正しい食べ方

手順を忘れたとき、食事はようやく始まる

食べ方のわからない料理に出会うと、私はまず周囲の人の手元を見る。どの道具を使い、何から口に運び、骨や殻をどこへ置くのか。注文した時にはなかった不安が、料理と一緒に運ばれてくる。

目の前の料理でも、スプーンを持ったあとで箸に替え、またスプーンへ戻した。大きな具をよけなければ底へ届かず、よけた具を置く場所もない。きれいに食べようとするほど、食事が始まらなかった。

読めない配達画面でも、数字とボタンをたどれば注文はできる。知らない土地でも、そこまでは進めるかもしれない。しかし、目の前に届いたものをどう食べるかには、次に押す緑のボタンがない。

ところが、一口食べてしまえば、正しさは少し遠のく。熱い、辛い、うまい。その順で考えているうちに、隣の人の手元を見ることも忘れた。食べ終えた器はきれいではなかったが、最初に感じた不安も残っていなかった。

余分な仕事

役に立たないひと手間が、場所を記憶に残す

仕事で何かを作るとき、最初に決めるのは「必要なもの」である。正しく動くこと、壊れにくいこと、使う人を迷わせないこと。それだけでも、作るべきものはいくらでもある。

だから、役に立たない飾りは後回しになる。なくても動くものへ時間を使うより、不具合を一つ減らした方がよい。そう考えるのは、たいてい正しい。

ところが、街を歩いていて覚えているのは、正しく役目を果たしていたものばかりではない。用事のない場所で足を止め、誰が加えたのかわからない遊びを見つける。そのひと手間がなくても道は使えるのに、それがあったために場所を覚えている。

丸い目が二つ付くだけで、道具にも性格が生まれる。機能に関係のないものは、機能とは別の役目を持つのかもしれない。使えるようにする仕事があり、もう一度見たくなるようにする仕事がある。

余分なものをすべて削れば、たしかに無駄はなくなる。しかし、無駄のない街を、私はどれほど覚えていられるだろう。雨の残る道で足を止めながら、少しだけ余分な仕事をした人のことを考えた。

矢印の手前

道が示されても、行き先までは決めてもらえない

大きな駅で迷ったとき、案内板を見れば見るほど動けなくなることがある。矢印はどれもはっきりしているのに、自分がどの出口へ行くべきなのかがわからない。

案内は、行き先を知っている人には親切である。番号や路線名を選べば、曲がる方向も、上る階段も教えてくれる。しかし、待ち合わせ場所を曖昧に覚えていたり、地上へ出てから向きを決めようと思っていたりすると、たくさんの矢印は、可能性を減らすどころか増やしてしまう。

私は案内板の前で立ち止まり、地図を開き、また顔を上げた。道がわからないのではない。どこへ行きたいのかを、まだ十分に決めていなかったのだ。

指示に従うことと、行き先を決めることは別らしい。矢印は、その手前にいる人の代わりに目的地を選んではくれない。結局、近くの出口から地上へ出ることにした。正しい道を見つけたのではなく、ようやく一つを選んだだけだった。

座る前の一口

待ちきれない一口も、朝食のうちに入る

料理を作っている途中で味見をするとき、その一口を食事のうちに数えることは少ない。焼け具合を見るため、甘さを確かめるため。どれも調理に必要な作業ということになる。

しかし、端を少しちぎり、もう一度だけ確かめているうちに、空腹は静かに小さくなっていく。皿を運び、椅子に座る頃には、最初に感じていたほど腹が減っていない。

食事は、席に着いて「いただきます」と言ってから始まるものだと思っていた。ところが、作る側に回ると、始まりはもっと曖昧である。香りを確かめ、指についたものを舐め、形の悪い端を先に食べる。そのどこかで、朝食はもう始まっている。

椅子に座ってから食べた分だけを見れば、少し物足りない朝食だったかもしれない。だが、台所で待ちきれずに食べた一口まで思い出せば、量はちょうどよかった。

まだない席

約束は、空席より先に人を安心させる

指定席の切符を持っていると、列車がまだ来ていなくても、すでに座る場所があるような気になる。ホームには線路しか見えないのに、切符には号車と席の番号が印刷されている。

自由席なら、扉が開いてから空いている場所を探す。指定席なら、誰かに先に座られているかもしれないと心配する必要はない。その安心のために買っているのは、座席そのものより、席を探さなくてよい未来なのかもしれない。

もちろん、予定された列車が来なければ、番号の付いた席も現れない。約束は、実物より先に存在できるが、実物の代わりにはならない。それでも私は、切符を何度か見直した。確認するたび、まだない椅子の輪郭が少しはっきりする。

やがて遠くに二つの灯りが見えた。列車がホームへ入る前から、私はまだ見たことのない自分の席へ向かって、少しだけ体の向きを変えていた。

裏返すまで

不便な順番が、一枚ぶんの時間をつくっていた

音楽を聴くとき、一曲を選ぶまでの時間はほとんどなくなった。題名を思い出せなくても、歌手の名前や歌詞の一部を入れれば、目的の曲まで連れていってくれる。

カセットテープでは、一曲だけを聴くにも、その曲がある辺りまでテープを送らなければならない。行き過ぎれば少し戻し、終わりまで来れば面を裏返す。聴きたい曲の前後に、望んでいなかった時間が付いてくる。

便利になったのは、音楽ではなく、選択なのかもしれない。曲は以前と同じ長さで流れるが、そこへたどり着くまでの迷いや待ち時間は消えた。その代わり、目的ではなかった曲を、順番だからという理由で最後まで聴くことも少なくなった。

すぐ選べることは、すぐ替えられることでもある。気分に合わなければ次へ進み、冒頭で心をつかまれなければ別の曲へ移る。裏返すまで聴くという不便さは、一枚ぶんの時間を途中で逃げずに受け取るための、不器用な仕組みでもあったのだろう。

いない人数

空いている場所にも、人の数は刻まれている

大勢が集まる場所の前を、誰も集まっていない時に通ると、通路が不自然なほど広く見える。一人で歩くには余りすぎる幅が、建物の周りに残されている。

催しの最中なら、その幅も人で埋まり、複数の入口が同時に使われるのだろう。人の流れを分ける柵や、繰り返し置かれた案内も、誰もいなければ少し大げさに見える。

しかし、その大げささをたどれば、そこにいない人の数がわかる。広い通路には横一列に歩く人々が、閉じた入口の一つ一つには順番を待つ列が隠れている。群衆は消えても、群衆に合わせて決められた寸法は残る。

私は入口へ向かわず、そのまま外側を歩いた。すれ違った人はほとんどいない。それでも、広すぎる道を一人で歩いていると、目に見えない大勢の端を、反対向きに進んでいるような気がした。

輪の先頭

先頭のない輪でも、足取りは少しずつ揃う

輪になって踊る人たちを見ていると、誰が先頭なのかわからなくなる。列なら一番前の人を見ればよいが、輪には始まりも終わりもない。

それでも踊りは進んでいく。一人ずつ見れば、隣の人より半歩遅れたり、手の向きを間違えたりしている。しかし、輪全体では同じ動きがゆっくり巡っているように見える。

おそらく、全員が完璧に振りを覚えているわけではない。少し前を行く人を見て動き、後ろの人から見られる。教える人と教わる人が固定されないまま、一つの動きが輪を回っていく。

先頭がいなければ進めないと思うことがある。だが、誰も先頭にならないから続くものもあるのかもしれない。曲が変わると、揃いかけていた手がまた少し乱れた。それでも輪は途切れず、同じ場所をゆっくり回り続けていた。

汚れる道具

きれいにするほど、道具には汚れが移っていく

掃除道具を買い替えるとき、古いものをどこまできれいにしてから捨てるべきか迷う。汚れを落とすための道具なのだから、汚れているのは当然である。それでも、そのままごみ袋へ入れるのは少し乱暴な気がする。

新しいブラシは、使う前がいちばんきれいだ。一度こすれば毛の間に汚れが入り、役目を果たすほど、売り場にあった姿から遠ざかっていく。

普通の道具なら、手入れをして長くきれいに使うことができる。しかし、掃除道具の汚れは、働いた跡でもある。汚れないように使えば、たぶん何もきれいにはできない。

古いブラシを水で洗うと、完全には戻らなかった。新品のようにならないから捨てるのに、捨てる前だけ新品へ近づけようとしている。その矛盾がおかしくなり、最後に水を切ってから、ごみ袋へ入れた。

二つの片手間

手を止めたところで、味と文章が重なって残る

本を読みながら何かを食べれば、二つの楽しみを一度に済ませられると思う。しかし、頁をめくる手と匙を持つ手は、意外に仲が悪い。

片方の手で本を開いたままにし、もう片方で食べる。頁の終わりまで来ると匙を置き、紙をめくり、また匙を取る。そのたびに文章は途切れ、口の中の味も少し遠くなる。

読みながら食べているつもりでも、実際には短い読書と短い食事を交互に繰り返しているだけなのだろう。二つを同時に進めようとすると、どちらにも小さな待ち時間が生まれる。

しばらくして本を伏せ、食べる方を先に終えた。急いで二つを済ませるつもりだったのに、一つずつするより長くかかった気がする。読み直した頁には、匙を置いたところの一文だけが、味と一緒に残っていた。

香りの手前

香りは、火を通ったあとで初めて生まれる

コーヒーの香りは、豆が初めから持っているものだと思っていた。挽いたときに強くなるのは、内側に閉じ込められていたものが外へ出るからなのだ、と。

ところが、火を入れる前の豆を前にすると、知っている香りはまだほとんどしない。色も手触りも、いつも袋から量る豆とは別のものに見える。馴染みのある一杯は、隠れている香りを取り出したものではなく、熱によって新しくつくられたものらしい。

人にも、初めから備わっていて、機会さえあれば現れる性質があると思うことがある。しかし、何かを経験した後で、それまでなかった性質が生まれることもあるのだろう。変化したのではなく、本性が出たのだと考える方が、話は簡単になる。だが、火を通る前には存在しなかった香りもある。

店を出たあと、服にかすかに焙煎の匂いが残っていた。家へ着くころには消えていたが、袋の中では、さっきまでなかった香りが少しずつ濃くなっていた。

借りた地名

名前が変わっても、二人の角は消えない

待ち合わせ場所を、店や看板の名前で決めることがある。住所を一字ずつ伝えるより、「あの大きな広告の下」と言う方が早い。地図に載らない呼び方でも、二人が同じ角を思い浮かべれば、それで足りる。

ところが、借りた名前には期限がある。店は閉まり、広告は別の商品へ替わる。建物そのものがなくなることさえある。それでも、以前そこで会った人との間では、古い名前が待ち合わせ場所として残り続ける。

街には、正式な地名とは別に、人が用事のたびにつけた私的な地名があるのだろう。初めて食事をした店の前、道に迷って電話をかけた交差点、雨宿りをした軒下。名前を貸していた店が消えても、その場所で起きたことまでは一緒に消えない。

少し早く着き、かつて目印だった看板のあたりで待った。そこには別の名前が明るく出ている。それでも、遅れてきた人は遠くから手を上げ、昔の名前でその角を呼んだ。