或る世界

水面の食卓

誰かの夕食を、自分の風景にしないために

旅先の夜、美しい食堂を見つけると、入り口より先にカメラを探してしまうことがある。その瞬間、そこにいる人の暮らしを、自分が持ち帰る風景へ変え始めているのかもしれない。

こちら側から眺めれば、それは夜の美しい景色である。しかし、席に座っている人たちにとっては、ただの夕食なのだろう。何を食べるか決め、皿を取り分け、その日にあったことを話す。水面の映り方を気にしている人はいないかもしれない。

旅をすると、誰かの日常を「風景」と呼ぶことが増える。古い家、洗濯物、朝の市場、窓辺の食事。珍しいものを見つけたつもりでも、そこにいる人は私に見せるために暮らしているわけではない。そのことを忘れると、旅は世界を見ることではなく、世界を背景にして自分を見ることになってしまう。

写真は、その場では見えなかった形を後から見せる。だが、写真が見せるものばかりがすべてではない。離れることで橋の全景が見えることもあれば、離れたために、食卓を囲む人の事情が見えなくなることもある。

近い将来、知らない土地を長く歩くことになる。美しい場所では、まず写真を撮りたくなるだろう。それでも、窓の中にいる人の夕食まで、自分の景色にしてよいわけではない。

水面の食卓は、細かな波で何度も崩れた。窓の内側の食卓は、そのあいだも変わらず続いていた。